ケメのヒーリングスペース

    0磁場分杭峠~安曇野を起点に、スピリチュアルシンクロヒーリングな日常を綴ってます。

    湯川秀樹博士がノーベル賞を貰った訳

    2013/08/11 10:47 ジャンル: Category:マスコミ報道の嘘
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    被爆国・日本にもあった「幻の原爆開発計画」

    被爆国・日本にもあった「幻の原爆開発計画」 より

    終戦の翌年、アメリカの新聞に驚くべき記事が掲載された。
    「日本は原爆を開発していた。朝鮮半島北部で実験は成功」
    なんと太平洋戦争末期、敗色が濃厚となっていく日本で
    起死回生を狙って極秘裏に原爆製造計画が
    進めてられていたのである!
    陸軍の強い圧力のもとで必死にウラン濃縮に挑む
    若き科学者たち。
    そして原爆用のウラン鉱石を掘っていたのは
    福島県に住む15歳の中学生たちだった。


    「マッチ箱一箱分で
    米国のニューヨークを吹っ飛ばす爆弾が出来る」

    少年たちはそう聞かされて素手にわらじ履きで
    ウラン鉱石を掘らされた。
    その一人、永沼不二夫さん(当時15歳)の証言を軸に
    物語は進行していく。

    昭和16年4月、日米開戦を目前にした陸軍は、
    当時、東京駒込にあった理化学研究所仁科研究室に
    原子爆弾の開発を正式に依頼する。
    仁科研究室には後にノーベル賞を受賞する
    朝永振一郎をはじめとする優秀な科学者が集まる。
    この極秘プロジェクトは仁科の頭文字から
    “二号研究”と名付けられた。
    仁科は核爆発によるエネルギーをアメリカの科学者と同様に
    ほぼ正確に予測し、原爆製造に必要なウラン235の
    濃縮分離実験を始めることになる。

    一方でウラン鉱石掘りに駆り出されたのは、
    福島県石川町の中学生たち160人。
    石川町にある石川山は昔から稀少鉱物の産地として有名で
    ウラン採掘の場所として白羽の矢が立ったのである。
    このウラン鉱石を掘る作業が始まる直前、
    永沼少年のもとに戦地に行った父親から手紙が届く。
    父の赴任地はあの硫黄島だった…。

    昭和20年3月21日、永沼不二夫さん(当時15歳)は、
    ラジオから流れた大本営発表の硫黄島玉砕のニュースで
    父・文男さんの死を知った。

    中学生たちのウラン掘りが始まったのは
    その一週間後のことである。
    この年、4月13日、仁科研究室にB29の空襲があり、
    原爆開発に欠かせない実験装置が炎上してしまう。
    翌日、仁科は東京の研究室での計画続行を断念。
    研究員たちは大阪や山形に散って
    細々と計画を進めることになる。

    それでも永沼不二夫さん等中学生たちはウランを掘り続けた。
    グラマンの機銃掃射を受ける危険な日々が続く中、
    ついにその日がやってくる。広島原爆…。

    仁科博士はこのときこう書き記した。
    「我々、二号研究の関係者は腹を切る時がきたと思う」
    そして終戦。
    ウラン鉱山で玉音放送を聴いた中学生たちに
    教師はこう語りかけた。

    「明日からはスコップの替わりに教科書を持ってきなさい」


    ニ号研究の研究総額は当時の金額で2000万円、
    現在の60億円という。
    同時に海軍も京都大学に研究を依頼しており、
    海軍が上海から日本へ原料の酸化ウラン130kgを
    一億円(現在の300億円)で調達し、運び入れたことが
    アメリカ国立公文書簡の文書に残されているという。
    海軍の秘密事項が敵国だったアメリカに
    筒抜けだったということである。
    そればかりではない。

    日本は第三次世界大戦の攻撃対象~なわ・ふみひとより

    また、日本で初めてそのノーベル賞を受賞した
    湯川秀樹博士は、
    戦時中に「新兵器」に関する大変重要な情報を
    アメリカに流したため、その論功行賞として
    ノーベル賞を与えられたのだという

    “事実”もさらりと述べられています。
    真偽のほどはわかりませんが、
    失望すると同時に大変な憤りを覚えました。

    その「新兵器」というのは今でいう原爆のことです。
    日本の研究所ではアメリカよりも先に
    基礎理論が完成していたのです。
    ただ、軍の機密に属することなので
    外部に漏れてはならないとされていたものを、
    「当時研究補助員であった湯川秀樹が米国に売り渡した」
    とあります。
    渡部氏はこの文章に「国賊・湯川秀樹」
    というタイトルをつけていますので、
    あながち根拠のないことではないのでしょう。
    湯川氏の関係者から名誉毀損の訴えがあったという
    ニュースも耳にしません。

    『ユダヤは日本に何をしたか』 渡部悌治・著/成甲書房
    という本の中に述べられているとのことである。
    またこの本では日本の生協の父と言われる賀川豊彦も
    アメリカのスパイであったと述べられているということです。
    ノーベル賞というものがユダヤ権力に功績があった者に対する
    賞であるというのがその本質であるとすれば
    「国賊・湯川秀樹」という見方も充分あり得る話なのです。

    湯川秀樹博士のこと
    2007年10月17日 01時10分 発行
    日本人初のノーベル賞受賞者として、
    その名を知らぬ者はいまい。
    彼は自身の中間子理論が原爆開発に利用された事を
    終始悔やんでいたという。
    戦後平和運動に邁進したのもその思いからだったという。

    ところが、どっこいこれがとんだ食わせ物の話で、
    彼は実は戦時中、核開発の研究スタッフの一員だったが、
    日本がまとめた核分裂に関する理論と資料を
    米国に売ったというのである
    「ユダヤ人は日本に何をしたか」(成甲書院)。
    戦後のノーベル賞はその論功行賞だという。
    確かにノーベル賞というのは白人の独断場で、
    白人以外の人間に与える気がなかったのは、
    戦前、細菌学で世界一のレベルにあった日本で、
    湯川以上の大発見をしてるはずのや野口英世が
    賞を受けていない事でもわかる。

    戦後だって、女性の排卵期日を月経との関係でつき止めた
    荻野博士も世界的な発見をしてるのに
    候補に上がったという話も聞かない。
    大体、ノーベルの遺言に無い経済学賞などというものを
    後から作っている事自体、
    この賞が如何に政治的であることがわかる。

    湯川が売国的な行動をしなければ
    広島・長崎の惨劇も避けられたかもしれない。

    売国奴とは彼湯川のことである。
    中間子理論も彼一人だけの産物ではない。
    どうりで平和運動にいそしんだはずである。
    全てアリバイ闘争だったのである。
    ノーベル賞以降さしたる業績も発見もなく終わった彼は、
    被爆者の亡霊に悩まされる晩年だったのかもしれない。


    毎年、この時期になると広島や長崎において慰霊祭が行われ、
    時の首相が挨拶をする。
    「二度と悲劇を繰り返すな!」
    と叫ばれるたびにむなしさを感じてしまう。
    悲劇を繰り返さないためには
    歴史をきちんと総括しなければならない。
    その歴史とはありきたりの教科書の歴史ではない。
    如何にユダヤ勢力が世界の歴史に
    殺戮と非道を与え続けているかを凝視しなければならない。
    そのことを避けて世界に平和は決して訪れない。

    by ヘンリー・オーツ 2008/08/06


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