ケメのヒーリングスペース

    0磁場分杭峠~安曇野を起点に、スピリチュアルシンクロヒーリングな日常を綴ってます。

    何故かあまり知られていない般若心経の広本とは?

    2011/05/05 22:15 ジャンル: Category:未分類
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                                なぜ、脳は神を創ったのか? (フォレスト2545新書)
    USTREMって休憩中もそのまんま配信されるんですね。
    休憩後いきなりお釈迦様の悟りについて語られますが、(【00:58:00】あたりから)
    スコトーマ(盲点)を突いた説明は見事です。

    (自分にとって重要なものしか目に入らない凡人の境地)

    私を育ててくれたおばあちゃんは、神棚からお仏壇まで各種宗派を取りそろえ、朝夕、お祈りしまくっていましたが、一神教だけは祀られていませんでした。・・・でもクリスマスにサンタさんにお願いする時は、何故か神棚ではなく仏壇でした。

    一神教の絶対神はゲーデルに否定されたようですが、信者はそれをどう受け取ったのでしょうか?
    近所の信者さんにそんなこと言ったら・・・【でも、ちょっと聞いてみようかな・・】・・。
    一神教に寄せる思いは又にしまして・・・・    →    ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫)


    般若心経(小本)に対する苫米地氏の解釈に対して、(広本)般若心経の存在を明示しているサン・ドワンさんのブログを勝手ながらご紹介させて頂きます。【追記をご覧ください】

    サン・ドワンさんのブログ


    【気になったニュース】

    ビンラディン容疑者殺害:信じられない



    サン・ドワンさんのブログ

     放送で Dr.苫米地阿闍梨もおっしゃっていたように本邦で日常の読誦に供されているいわゆる 『 般若心経 』 は一般に必要とされている < 経の結構 > というものを満たしていない珍しい経典であるという事は広く知られているところなのですが、と同時に放送でDr.苫米地阿闍梨は触れてはおりませんでしたが、本邦で日常の読誦に供されているいわゆる 『 般若心経 』 は俗に < 小本 > と呼ばれるものであって、それとは別にきちんと < 経の結構 > を満たした 『 般若心経 』 が俗に < 広本 ( 大本 ) > と呼ばれる形で伝えられているという事も、これまた広く知られているところであります。

      Dr.苫米地阿闍梨に心を洗われた皆さんが当然にご存知かどうかは分かりませんが、本邦で日常の読誦に供されているいわゆる小本の 『 般若心経 』 はある意味において < 呪術的な効果 > を期待されてまさに日常の読誦に供されるためのものなのであって、その背後に小本以外の俗に広本 ( 大本 ) と呼ばれる形のものがある以上は、その経の論理的な展開はそこまで視野に入れた上で理解しなければならないのは当然の事と言うべきでしょう。

     この俗に広本 ( 大本 ) と呼ばれるものも当然の事ながら 『 大正蔵 』 にはきちんと収録されています ( し、ちなみに 『 大正蔵 』 には七種類の漢訳 『 般若心経 』 が収録されています ) のでそれを参照しても良いのですが、今ここでは広本 ( 大本 ) をそのまま日常の読誦に供しているチベットの伝統に敬意を表して、チベット語訳の 『 般若心経 』 を引いて検討を先に進める事にしてみます。

     漢訳の小本版では、観音が < 深い智慧の完成 > という三昧において 「 一切の苦しみと厄災とを済度 」 されたことを述べたところで、そのまま観音がいきなり 「 舎利子よ 」 とシャーリプトラに語りかける場面が展開されているわけですが、このあたりの経緯を広本ではもう少し丁寧に次のように描写しています。


    それから、仏の 〔 威神 〕 力により長老たるシャーリプトラが

    菩薩摩訶薩たる

    聖観自在に対してこの語をかく申したり。
    「 善男子たるある何者か、甚深なる般若 〔 智慧 〕 の完成の行を

    行ぜんと欲したるその者は如何にして 〔 それを 〕 学ぶべきか 」 〔 と。 〕
     つまり、このようなシャーリプトラからの問いかけがまずはあった上で、そのシャーリプトラからの問いかけに対する回答として観音のシャーリプトラに対する 「 舎利子よ 」 という呼びかけが出てくることになるわけなのですが、この場面で重要なポイントは 「 仏の 〔 威神 〕 力により 」 という部分になります。

     広本において丁寧に描写されている記述に従えば、観音に対してシャーリプトラが 「 甚深なる般若 〔 智慧 〕 の完成の行を行ぜんと欲したるその者は如何にして 〔 それを 〕 学ぶべきか 」 と質問したのは 「 仏の 〔 威神 〕 力によ 」 っているのであって、決して自発的に自らの意志で質問したわけではない、という事です。

     これは、仏すなわちお釈迦様がシャーリプトラに憑依したか神通力でも催眠術でも良いので何らかの方法でシャーリプトラを意識操作してそのような質問をさせたと解釈する事もできますし、そのようなオカルト的な解釈が好みでないならば次のように解釈する事もできるでしょう。

    釈 迦 「 お~い、舎利子~。 」
    舎利子 「 はい、何でございましょうか? お釈迦様 」
    釈 迦 「 最近クワン・インの奴がブイブイ言わせてるみたいだからさぁ、あいつがどの程度できるようになったかちょっと確かめたいんだけど~。 」
    舎利子 「 はい。 」
    釈 迦 「 それでさ、ちょっとおまえも手伝ってくれないかな? 」
    舎利子 「 御意、仰せのままに。 」
    釈 迦 「 これ・・・。想定問答集作ってきたからさ、いつもみたいにみんなが集まったらおまえが俺の代わりにアイツに質問してあいつがどんな答え方するかチェックしてくれる?、 」
    舎利子 「 御意、仰せのままに。 」
    釈 迦 「 じゃ、頼んだよ! 」
    舎利子 「 御意、仰せのままに。 」

     などというやり取りがお釈迦様とシャーリプトラとの間で、 『 般若心経 』 という舞台の幕が開く前の控え室あたりで交わされていた、という事をこの 「 仏の 〔 威神 〕 力により 」 という文言は指し示しているという事になるわけです。

     つまり、 「 菩薩が阿羅漢に教えを説くなんて、うえ~っ、じゃん! 」 などという事はまったくなくて、仏の指示を受けた ( 「 仏の 〔 威神 〕 力によ 」 った ) 阿羅漢が、菩薩の境涯がどの程度のものかをテストしている、という事になるわけ ( で、それはいわば口頭試問みたいなもの ) です。

     そこで、観音は実に見事な解答を示す事ができたので、 ( 広本版の ) 『 般若心経 』 の最後には黒幕のお釈迦様が姿を表に現した上で観音に対して 「 おまえの言ったとおりだ 」 とお褒めの言葉を投げかける、という形で大団円を迎えるようになっています。

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